風の強い朝でした。
天気予報では朝と夜は雪マークでしたから。
トイレに行き、缶コーヒーを飲むなどして目を覚まし、ハンドルを握ります。

唐津市に入ると海岸線へと向かいました。
本心では唐津城へ行きたいのですがそれはぐっと堪えて口にも出さない。
取り敢えず虹の松原
風が強いから唐津湾の波も高くなっており
ガキみたいに波と追いかけっこして遊んでいました。

今日中に彼女は京都に僕は広島に帰らなければならなかったので
福岡方面に向かったのですがやはり九州一の都市圏ということで
中心部はパスしたのですがかなり渋滞しました。

最後に大宰府天満宮に寄っていくことになりました。
ここも10年ぶりでした。
やはり僕は京都の北野天満宮の方が好きです。
一緒にごはんを食べてから別れました。
彼女は急ぎなので西鉄と新幹線を乗り継いで京都に向かって
僕は明日の法事のため一人広島に戻ることになりました。

残り(大宰府→広島)をただ帰宅するだけでは面白くないので
誰かに会ってから帰ろうと思ったので一人声をかけたところ
会ってくれそうなので北九州市へと向かいました。
交通量が多いのと国道以外、特に都市部の道路は分からないので
アバウトな待ち合わせ時刻ながら大幅に待たせてしまいました。
その子は良くできた子なので怒りませんでしたが僕は反省しなければならないです。
その子とは約1年ぶりに会ったんですが京都以外で会うのは初めてでちょっと変な気分でした。
ペーパードライバーだと言っていた子が専用のクルマを持っていたのは少々驚きました。
しかも帰り僕のクルマまで送ってくれました。
女の子にクルマ乗せてもらうなんて今まで滅多になかったです。
仕事の拘束時間が長くて土日以外に時間がないし
土日は疲れているので云々はいかにも社会人しているなと思いました。

一人で北九州市某所を後にし門司から海底にもぐって山口県へ。
調子に乗ってバイパスでスピードを出しているとオービスの赤い光に照らされて不覚!
この速度オーバーはスピード違反一発免停かと覚悟しました。
実は今回の旅でもう2度目だったので、これはヤバイと。
免停じゃ仕事にならないし怒られる程度じゃ済まないですし。
しかし起こったことは仕方がない。
缶コーヒーを飲みながら音楽を聴いて気分転換しました。
ひたすら一人で夜の単調な国道を運転していると眠くて仕方がない。
そこで音楽を聴きながら歌う。
これを広島市内まで行いました。

ちょうど広島市に入った頃雪がちらほらし始めました。
実家に至る坂道なんて雪が積もっていまして冬タイヤもチェーンもない我がクルマは
タイヤをすべらせ始め15キロくらいしか出せなくなりました。
深夜1時くらいに静かに帰ったつもりですが、家族には大バカ扱いされました。

全工程で8日。
走行距離約2500〜3000キロ。
食費・燃料費・観光地入場料・駐車場料など総額3万円ちょっと。
まぁまぁの貧乏旅行ですね。
本人全くケチってないつもりなんですけどね。
朝起きると強い雨…、せっかく雲仙を楽しみにしていたのにこれでは台無しでした。
断腸の思いで雲仙を諦めて島原城の観光を決定しました。
僕は城巡りが好きでできることならば九州の有名な城を
片っ端から巡りたかったのですが彼女が嫌がるから諦め続けてきました。

島原城は天草四郎や島原の乱、隠れキシリタンについての展示が多くて知的好奇心が湧きました。
それよりもワクワクしたのはお土産屋さんにて発見したものです。
雲仙普賢岳にちなんだ「噴火まんじゅう」です。
紐をひくと石灰か何かが加熱されまんじゅうが蒸されるという面白いものでした。
危険物扱いで飛行機持ちこみ禁止というのも笑えました。

普賢岳を過ぎたあたりで天気は曇りに変わって
でも戻るわけにはいかなくて仕方なく長崎市内へと向かいました。

それにしても長崎市内は走りにくかった。
地方都市らしくクルマ社会で交通量が多いこと。
路面電車がよく走ること(これは九州だけでも熊本や鹿児島でも体験済み)
観光名所が多いくせに案内が全く充実していないこと。
道路の案内板がアバウトで名所に近づけば近づくほど適当になること。
駐車場はことごとく完備されておらず市営や民営の有料駐車場にとめねばならないこと。
列挙するに苦労しません。

まずは平和公園の平和記念像を眺めるわけですがお腹がすいては何もできません。
10年ぶりに同じ中華料理屋に入ってごはんを食べました。
それから原爆資料館へ見学に行くわけですが食後すぐはちょっときつかった。
最初の15分くらいは死体がちょっと気持ち悪かったです。
広島出身ですから慣れていないわけではないですが…。
僕は広島の資料館よりも長崎の方が好きですね。
双方共に原爆の非人道性と恒久平和のため存在しているのですが
広島は原爆のひどさを真正面からドカンと見学者に見せ付けます。
長崎はひどい写真などは少ないですが展示が文学的です。
人間の心へ真正面に取り組んでいると思わしめました。
真剣に展示を見ていましたのですぐに夕方になってしまいました。
浦上天主堂に寄ってクルマに戻りました。

今日の温泉は佐賀県の武雄温泉
長崎市からぐーっと走りました。
武雄温泉なんて九州に行ってからも知らなくて地図で佐賀県を見てから知りました。
歴史のある温泉だったというのに。
朱塗りの門が迎えてくれて、
元湯に入ったのですがすごくレトロな雰囲気で気に入りました。

天気予報によると翌日は雪ということで寒い夜でした。
久しぶりの雨。
全く宿をとらない旅では携帯電話は重要なツールです。
例えば今日の雨も昨日の昼には天気予報で予測しているのです。

天岩戸神社、言わずもがなですが我が国の伝説を語るには外せない場所です。
天照大神が隠れた場所ですね。
ここも昔は日本の偉い方々が来られた跡がありました。
歩いて天安河原へ移動。
岩戸川の緑色を眼前に見下ろしながら進んでいくと怪しげな空間が広がってきます。
洞窟には日も当たらずに薄暗くて、
誰が積み重ねたのか数え切れないほどの石が積み上げられていて、
昔話に聞くあの世みたいな場所です。

高原を走っていると思ったら外輪山が現れ、
それのクネクネを中速でこなしていると千数百メートルの阿蘇の山々が見えます。
国道と鉄道がある麓から中岳を目指し上っていきます。
いくつもの九十九折れがあります。
四輪車のエンジンでも高度による気圧の低下と酸素の薄さと勾配から
アクセルを踏み込んでも吹け上がりが悪いです。
約10年ぶりの中岳は普通に硫黄臭くて噴煙をあげていました。

昼ごはんは熊本名物だご汁(だんごの汁)の食べすぎで気持ちが悪くなりました。
飲酒運転と思われるクルマが前方を走っていて
こいつのおかげで気持ち悪いのどうの言っていられませんでしたが。

ひたすら走り続け福岡県柳川市。
だご汁でお腹いっぱいなので名物を食べる余裕もなく通り過ぎました。
そういうわけで更に進んで佐賀県突入。
「佐賀県」の吉田屋なんてどこにもなくて吉野家が点在していました。

吉野ヶ里歴史公園、ここも10年ぶりでしたが、前回は大部分が発掘中だったのに
今回はそこそこが公園化されていました。
閉演30分前に入ったのに50分くらいのんびりしていました。
それには理由があって一つは広くて迷ったのと
もう一つはどこかの考古学者か大学の教授みたいなおじさんが
偉い方々に説明しているのを羨ましそうに聞いていたら
「特別公開だ」と僕たちを立ち入り禁止の場所に入らせてくれたんですよね。
説明が聞けてラッキーでした。

日が暮れてから長崎県目指して南下していると有明海があったので
泥の海を体験しに一歩だけ足を踏み出してみました。
ここらへんミーハーです。

僕たちは基本的に風呂好きなので毎日のように温泉に入りました。
本日は通りがかりの旅館へ貸切風呂のために飛び込みでした。
田舎まで来ると空いているもんで即OKでした。

雲仙麓でクルマを停めるとそこにはたくさんのチャリダーたちがテントを張っており
僕はクルマみたいな楽なもんじゃなくてせめてバイクくらい乗らなきゃと思うのでした。
良い天気が続いた。
太陽で目覚めるのは善いことだと思います。
南下ばかりしていたのに昨夜から北上、折り返し点を過ぎているのを感じます。

不知火で柑橘系のソフトクリームを買う彼女。
珍しいソフトクリームがあれば手当たりしだい食べています。

天草は海の幸がおいしい。
次々と島へと渡っていきます。

隠れキリシタンというのがキーワードで向かった天草。
楽しみにしていた天草ロザリオ館は休館日…、残念でした。
大江天主堂だけ見物しました。
(きっと)敬虔なシスターがおられました。
観光客に開かれた天主堂ですが無料なのがいい。
僕はパンフレットを買うことでお金を寄付しました。
キリスト教思想はそれほど好きじゃないですが
こういった生活が宗教そのものである人間は好きです。

天草のクネクネ道をこなしながら熊本市へ向かう途中にひさびさにヤツが来ました。
さざ波とか呼んでいるヤツですがこれが来ると一気に生命力が抜き取られます。
彼女の前で来るのは珍しく、彼女は心配そうでした。

熊本では有名なラーメン屋に行って、城が見える温泉に入って、
明日以降の予定を考えるためにガストに落ち着きました。
やはり高千穂(宮崎県)は行きたいぞ、ということで予定変更。
深夜のド田舎の国道をひたすら東進です。
彼女は疲れて寝ぼけていましたが僕は寝ぼけるわけにはいかない。
気温は下がっていましたが峠は凍結していなくて快走しました。

今日もエンゲル係数の高い一日でした。
寝床をケチっているくせに食べ物には全くケチらないんです。
鹿児島の田舎で車内泊しているとそこには他にも車内泊をする物好きな方々がいっぱいいて
少々旅の空気が流れていました。
キャンピングカーなんて便利だと思いますけど、僕は貧乏じゃないならば断然ホテルの方がいいと思います。
経済的に豊かでないという必要性から車内泊をすることがバカな若者っぽくて一番好きです。
だから素朴な若者カップルなんて勝手に仲間意識を抱きます。
朝からすっごくかわいい女の子を連れた男の子がいて羨ましいとかじゃなくて
この二人いいなぁとベストカップル賞を与えたい心地でしたね。

2日連続20度近くだったのですが指宿を越えた山中はまだまだ雪が残っていました。
鹿児島に雪というのは珍しいことです。
後で聞いた話では屋久島の平野部でも滅多にない積雪があったそうです。
朝っぱらから開聞岳
登山の格好も装備も全くせずにいきなり登山です。
彼女は低山も登ったことがないのに思いつきで登りたいと言い始め本当に登ることになりました。
僕も開聞岳自体は前々から興味があったので賛成しました。
山どころかアウトドアもできない格好なのに山に入るのは少々恥ずかしいものです。
完全装備をしたおじさん・おばさんに「キミたちバカだねー」と言った視線と
「せいぜい頑張れ」といった意味の言葉を投げかけられますから。
「山をなめんじゃねぇ!」といった心持ちなのでしょうか、
挨拶の無視や舌打ちをする輩までいました。
しかし僕に言わせてみればたかが数時間の登山に完全装備する人たちの方が変なのです。
1000メートルもない山で遭難するのを恐れるのもケガをしてしまうのも
心に油断があり、体に緊張感が足りないのであって、気の持ちようで全て防げるのです。
そして装備をきちんとしなければそれを防げない人間は精神的に弱いのです。
昔の人間は軽装で山に入ったものです。
最近の中高年の登山やトレッキングブーム、初心者なのに装備だけ整えたがる人間が嫌いです。

開聞岳は美しい。
登っていて感じました。
登山道が見事にぐるっと一周しながら頂上へ至るのです。
7合目くらいから積雪があり深いところは30センチくらいありました。
普通のスニーカーで岩場の雪をこなしていました。
すれ違ったおばさんに靴のことをバカにされましたが彼女なんかよりずっと早く歩けます。

頂上からは屋久島が見えました。
開聞岳に200回ちょっと登っているというマニアのおじさんが言うには
頂上から屋久島が見えるなんて数十回に一度しかないそうでかなり幸運らしかったです。

下りはすべってすべって楽しかったです、と書くと彼女に気の毒でした。
彼女は運動神経がよくないらしく、よくすべっていましたし、
雪まみれ、泥まみれになっていました。
勢いがつくと岩場から落ちるだけでなく、山から転落してしまうので笑って見てはいられませんでした。
下山すると頂上で会ったおじさんとお話になりました。
僕はなぜか電話が2件かかってきて、彼女に相手してもらってました。
おじさんと別れて知覧へ向かいました。
知覧は一度行ってみたかった。
特攻平和会館が目的です。
阿川弘之や島尾敏雄の骨太な戦争文学を読むと
やはりこういった場所に行かなければならない気がしてくるものです。
知覧は旧陸軍基地でしたので陸軍航空隊の展示がメインでした。
疾風、飛燕の実物展示もありました。
疾風も飛燕も戦闘機の名前です。
僕は太平洋戦争に登場した兵器や戦闘機を一時期まるまる暗記していましたので
年齢の割には理解が早かった方かと思います。
旧海軍のゼロ戦もありました。
詳しく言うと零式艦上戦闘機52型の改良バージョンでしたね。
逝かざるを得なかった人たちの魂をしのぶ空間でした。
戦争やそれに関する反省、平和を考えるなら教科書で学ぶのではなく
生き証人の話を聞くとか、こういった場所で魂のこもった遺書を読んでみるとか
どこか生の体験を感じてみることが重要でしょうね。
だから特に社会科ですが教科書検定がどうとかどちらでもいいようにしか思えません。
中国人とかアジア系外国人もいましたが彼らはどう感じたのでしょうか。

枕崎の寂しい街で温泉に入りました。
露天風呂からはここでも屋久島が見えました。
人々から発せられる鹿児島訛りはきついですね。
なんとなくの意味は分かりますが真似はできません。
生の「ごわす」を聞いた彼女ははしゃいでいました。

次の観光目的地まで距離があるので枕崎で日が暮れたというのに
一気に熊本県水俣市を過ぎるあたりまで走りました。
何度も書きますがクルマの運転って本当に楽です。

それから鹿児島県は本当にうまいものが多い。
鹿児島大好き。
フロントガラスいっぱいに朝日を浴びながら目を覚ます。
車内泊は太陽と仲良くなります。

通勤のクルマの列から通学の自転車をのぞく。
田舎の通学は元気いっぱいに見えます。

まずは宮崎神宮へ赴きました。
言い回しは変ですが―戦前は宮家が参拝したくらい宮崎神宮は立派なところです。
ちょうど盆栽市が行われており、宮崎市の街中で静かな空間が広がっていました。
ここで黒ネコとネコ語で会話しました。
僕はネコの鳴きマネが得意です―ネコは実家で3匹飼っていた時期があります。

宮崎市南部へ―、ヤシの木が嫌が応にも南国気分を醸すどころか押し付けてきます。
実際暖かかったです。
先日まで雪が降って困るという気温でしたのに。
青島への橋を徒歩で歩きながら、鬼の洗濯板を見たり神社を参拝したり
ゆっくりと過ごしました。
読売巨人軍キャンプが行われる場所ですから巨人に関する場所が多かったですね。
昼ごはんは高いお店の安めのメニューを食べました。
巨人の選手は数万円のコースとか食べるんでしょうが…。

陽光まぶしく光る日南海岸をドライブ、暑い暑いと言いながら。

都井岬は岬馬とニホンザルに何度も出会いました。
灯台や風景やすごい風よりも動物の印象が強いです。
ニホンザルは何度かひきそうになりました。
サルの子どもはクルマの恐ろしさが分からないらしく飛び出すんですよね。
灯台はきれいな白で海は青黒かったです。

鹿児島県の志布志へ突入すると一気に見覚えのある国道風景が広がりました。
何年前になるでしょうか、バイクで(別の)彼女と鹿児島へ来たことがあったのです。
懐かしかった。
その思い出を差し引いても僕は九州で一番鹿児島県が好きです。
夕暮れの桜島を通りながら右に噴煙左に錦江湾、
時間が経つと錦江湾の向こうに光る鹿児島市内が見えます。
桜島から鹿児島市内は海を隔ててすぐだし、フェリー航路が充実した路線はフェリー料金が安いので
クルマをフェリーに積んでデッキから桜島と鹿児島の光を眺めていました。

鹿児島ラーメンを求めて市内をうろうろし、
やっと見つけたお店は駐車場がすごく狭くて(絶対2回くらい切り返しが必要)
しかも一番難しいところしか空いていなくて良い練習させてもらいました。
目を覚ますと窓は真っ白。
車内泊の宿命、くもり・結露です。

目を覚ましてから大分県へ突入しました。
温度がそれほど低くなかったので山間部も積雪及び凍結はないと判断し耶馬溪へと進みました。
ここ数日の寒気で山の色緑よりも白でした。

耶馬溪は日本三大渓谷のひとつですね。
紅葉でも新緑でもない季節なので自然を楽しむという期待はそれほどしていませんでした。
ドライブには良いのんびりした風景が広がるばかりです。
田舎だー、と都市部在住の者が喜び期待する程度のものは十分に持っています。
それよりリフトで上った羅漢寺が良かった。
石仏もいたずらしようと思ったらできるほどの身近さ。
何千体もある石仏は壮観です。

耶馬溪から別府へ向かうR500は高原を越えながら別府湾が見えるなど豪快で
本州から来たものには九州の豪快さを味わうことができます。

別府温泉はひとつだけ入りました。
クルマで走るぶんには迷わないんですけど徒歩になると少々迷いました。
無料温泉もいいですが有料の安い温泉もいいですね。
銭湯並に安いですし。

僕は大分県って結構田舎なんじゃないかという偏見を抱いていましたが
大分市なんてちょっとだけ街でした。

今日はもっと頑張ろう、と夕暮れの原尻の滝を観にいきました。
原尻の滝は大分県の南部にあります。
大分は縦長の県なのでそこそこの距離になりました。
「豊後のナイアガラ」ですが吊り橋もありなかなか楽しめました。

それより立ち寄った国道沿いのから揚げ屋さんのおっちゃんが良かった。
現地の言葉で色々話しかけてくれて。
クルマ旅はバイクと違って出会いが少ないですから
自分から積極的にならないとなかなか会話になりませんが九州の人は温かいです。
僕の偏見ですけど、ある程度の大きさの島の田舎は人々が温かいです。
北海道、四国、九州がそうですから。
九州出身者が九州は大陸だと言い張っていましたが、僕は大きな島だと言っておきます。

原尻の滝から更に頑張って宮崎市郊外まで突っ走りました。
1日で400キロ(下道オンリー)くらいになりますとさすがにAT車でも少々疲れました。
広島に戻りました。
実家で所用があるのです、と書きながら、早くも実家を脱出です。
クルマに荷物を詰め込み国道2号線を走りました。
クルマを拝借して九州旅行を開始しました。
当初一人でする予定でしたが彼女がついていくというので同行。
全て車内泊するという汚い旅行に連れて行きたくなかったのですが。

天気予報は外れて雪はつもりませんでした。
冬タイヤをはいていないのにワインディング(峠道、クネクネ)を楽しむ僕は少々楽天家です。
時々架橋の金属部分などが凍結しかけていてタイヤがもっていかれましたが気にしません。

中国地方の方注目です。
山口県の国道沿い(R2)にあるおどろおどろしいお店知ってますか?
その名も「山賊」。
建物が怪しすぎです。
国道わきのドライブインに入るより断然オススメです。
「山賊」名物のおむすび450円は本当にでかいしおいしい。

「はよぉごはん食べに帰りんさいやぁ」
家族から電話がかかってきました。
「今下関じゃけぇ無理」
「は?下関?!」
家族にはどっか行ってくると言って出て行ったのでした。
家族は広島市内で遊んでくるくらいの軽い意味にとれたのでしょう。
僕にとってクルマなんてすっごい楽なツールでしかないから
たかが九州に行くくらい軽い意味でしかないんですけど。
たかがクルマでどこか行くくらいで過保護すぎるんですよね。
僕としては交通事故死しても「そこらに捨てといてくれ」(ハイロウズ)ってな気分なんですけど。
まぁ、死んだら色々迷惑だし責任はとれませんし
若気の至りなんて言われるでしょうが、それもいいじゃないでしょうか。

関門海峡を越えて福岡県。
久しぶりに九州上陸でした。
ケチな僕は観光地以外有料道は通りません。
だから高速道路なんてもっての他です。

本日はただの移動日。
福岡県豊前市で車内泊でした。
それにしても九州に入った途端に増えるファミレスの
ジョイフルの黄色は目立ちますね。
結構な田舎にでもありますし。
都市部以外ではジョイフル以外を探すのが苦労するくらいです。

北海道のセイコーマートやホクレンよりもずっと強力に感じました。
旅先の起床は早い。
翌朝のやることを決めてさえいれば
普段の生活リズムを何時間でもずらせる。

彼女が風邪と持病でのろのろ準備していたので
出発予定時刻はずれたが急かすのは苦手だし
人の都合に引きずられるのは良いも悪いも
一人では味わえない部分なので自分を変に納得させバイクに跨った。

彼女は小学生のときに何度も読み返し
僕は大学生になって初めて手にとった『二十四の瞳』
こいつは小豆島が舞台だった。
これは偶然ではない。
壺井栄(『二十四の瞳』の作者)と尾崎放哉(俳人)を求めて来たからだ。

小豆島の東南に坂手というところがあって
そこは壺井栄に関する重要な土地だ。
随分観光客を狙った施設が多い。
その中で僕たちが足を運んだのは
岬の分教場・二十四の瞳館、二十四の瞳映画村の2ヶ所だった。
前者は後者と重なる部分があってそれほどのものでもないが
後者はなかなか面白かった。
おみやげ屋や食事処が多いのが観光地っぽくて鬱陶しいけど
「二十四の瞳」の映画が観られるし
映画のセットがそのまんま残っていて見学自由だし
壺井栄文学館で生原稿などの展示があって興味を深めてくれる。
文学好きとしてちょっとした発見があった。
壺井さんは戦前生まれの人間だったというのに
原稿を読んでみると歴史的仮名遣いをしていなかった。
珍しい。
バスツアーを始めとして観光客は結構多かった。
でも90分以上の映画をクソ真面目に全部観たのは僕たちしかいなかった。
こんなところまで来て観なくてもいいという意見は分かるが
ここで観たかったのだ。

僕たちは食べ物の好みが非常によく似ている。
小豆島のテーマはうどんとソフトクリームだった。

うどんは2度食べたがそれほどおいしいものはなかった。
グルメな彼女だが四国生まれというのも相俟ってうどんに厳しいのだ。
HPに麺の食べ歩きコーナーを作っているが
おいしいものがなかったので更新するに至らなかった。

ソフトクリームはなんと4度食べた。
最初は「ミックス(なつかしソフト+黒ゴマソフト)」を食した。
なつかしソフトとは昔なつかしい味のバニラ風味だ。
読者の方は「アイスクリン」をご存知だろうか?
あれをもっとトロトロにしてバニラっぽくしたものだった。

次に「オリーブソフト」。
オリーブのつぶつぶ感がよろしくない。
オリーブが好きでもこれはちょっといただけなかった。
面白いけれど悪乗りして特産物を入れれば良いってものではない。
(小豆島はオリーブ栽培100年前後の歴史がある。確か三重県、鹿児島県、小豆島の三ヵ所で栽培にチャレンジしたのだが、小豆島しか成功しなかったために日本で唯一の成功例として生き残ったらしい)

次に「しょうゆソフト」。
小豆島にマルキンという有名な醤油メーカーがある。
「二十四の瞳」の映画のカメラに何度も映っていた。
そのマルキンの工場の脇で売られているそれを食べてみた。
意外にもおいしい。
醤油味だと言われなければ分からないくらいの味だ。
そのくせ醤油の香りは忠実に再現してある。
僕は特に好きではなかったが彼女は気に入った。

次に「佃煮ソフト」。
名前を耳にしただけで逃げたくなったがせっかくの小豆島にチャレンジした。
ソフトクリームを買う前にたくさんの佃煮の試食をしてみたところ
これが非常においしいものばかりだった。
これならまずくても本望だ、と意を決して食べた。
おいしい。
佃煮らしいところは佃煮で作ったハートの飾りくらいで
あとはソフトクリームに佃煮が物凄く小さくなって入っているくらい。
佃煮らしくはないがおいしいというのはズルイ。
佃煮で「えっ?」と意外性を売り出して味が無難だから効果倍増だ。
彼女は佃煮らしさをあまり出さずにおいしいからあまり評価しなかった。
僕はこういうせこいやり方が地方独特のせこさを表していて
人間っぽくていいと思った。


バイクでも走った。
寒霞渓という日本三大渓谷(で良かっただろうか?)へ向かった。
海抜0メートルから直線距離数キロで
いきなり600メートルちょっとまで上るんだから
小さい島のくせにちょっと生意気だ。
日本列島と富士山の関係に似ている。
気温はマイナスだったろうが構わずアップダウンするクネクネ道に合わせて
車体をしっかりバンクさせてひとつずつカーブを確実に曲がっていった。

小豆島88ヵ所で唯一参ったのがお寺の名前は忘れてしまったが最高最尊だと自称していた。
山の洞窟に本尊を祀り断崖絶壁に建物を配置し修行僧は鎖でそこをよじ登る。
僕のチャレンジは5M程度。
それ以上は命の危険があった。

太陽の丘というところにバイクを停めた。
ドライブインみたいな施設は倒産していた。
その上の丘にオリーブ神殿なるものがあり歩いて登ってみると
それはイザナギノミコト、イザナミノミコトを祀っていた。
炎はアテネのアクロポリスから運んできたらしいが既に消えていた。
なかなかすごい。
バイクに跨る前にドライブインの探検をしてみると
店の裏側にこんな小さな石碑があった。
「オリーブ王国建国」。
かなりひっそりと建っていた。
倒産しては国王も逃げ出すしかなかったのだろう。
彼は無念だったろうが廃墟が醸し出す雰囲気と
計画のくだらなさのギャップに笑いがこみ上げてきた。

結構な珍スポットだった。

冬の寒霞渓は寒々しかった。
やはり写真は紅葉のシーズンばかりだから
須らく紅葉を見に来るべきだと言われかねない。
閑散期好きの僕はこういった寂しい風景も悪くないと思う。
寒霞渓にある丘みたいな三笠山(▲650くらい)頂上まで登り
次のフェリーに乗って小豆島を離れることを決心した。
福田港まではひたすら下り。
小さな滝がいくつか凍っていた。
樹氷みたいに凍りついた植物もいくつかあった。

次回があれば寒霞渓だけでなく
星ヶ城跡の山(▲817)まで徒歩で歩いてみたい。

帰りのフェリーでも彼女は眠り僕はテレビのニュースを観ていた。
姫路から神戸までは60、70キロ程度で流した。
神戸の住吉でごはんを食べ体を温め人心地つくと
それから常時80キロ以上で車をどんどん抜かし2時間で京都の下宿まで帰った。
都市ではどんな大排気量の4輪でもなくオートバイが最速だ。

間もなく関西さえ離れるかもしれない。
今のうちに色々まわっておこうと思っている。

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走行距離1日目150キロ、2日目160キロ。
フェリーや観光で時間を使っているしこんなもんだろう。

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日にちを替えて続きを書くと文体が変わっていた。
文体は文章の命だというのは尤もだと思うが
文体にこだわりがないように見えるということ自体が
僕の文体の特徴かもしれない。
昨夜思い付きで言った「小豆島行こうか?」を実行することになりました。
要するにタンデムツーリングです。
危ないから人乗せるのあんまり好きじゃないんですけどね。
睡眠時間3時間くらいで出発。

大阪、神戸を通って姫路へ向かっては渋滞するので
亀岡、篠山など六甲の裏側を通って姫路に向かいました。
僕は前者を「街抜け」後者を「山抜け」なんて勝手に呼んでいます。
普段は時間や気温、天候と相談しながら決めています。
今回は山抜けだったということです。
天気予報では寒さが厳しいとのことでしたが
降水確率は10パーセントと低い確率でした。

亀岡市あたりまでは順調だったのですが
園部町あたりで雨が降り出し
兵庫県に入ったあたりから更に雲行きがおかしくなり
雪が降り、道路はびしょ濡れ、ヘルメットのシールドが凍り
白く雲って前が見えないほどになりました。
峠道のクネクネをタンデムでこなしながら
シールドにこびりつくミゾレを振り払うのは骨が折れました。
運転は難しいし寒くて体は震えるし厳しい状況でした。
コンビニで休んでいると寒さに負け店内から出られなくなりました。
バイクに乗るとしょっちゅう天気予報が外れる。
これはツーリングで山間部を通るから通り雨に遭うせいでしょう。
だから雨男ではないはずです。

篠山市の中心部あたりまで頑張ると天気は曇りになり
姫路に近づくと晴れになりました。
しかし気温は上がらずだったのでどこにも立ち寄らず
姫路で昼食と休憩をしました。
姫路駅は青春18切符で何度も乗り換えした駅だから大きいのを知っていました。
しかし姫路という街自体はそれほど大きくもありませんね。
調べたわけじゃないですが人口50万いないんじゃないでしょうか。
カツのお店が多かったのが印象的です。

姫路港から小豆島の福田港までフェリーです。
乗り物好きの僕はフェリーが大好きです。
はしゃぎます。
くまなく船内を探検してデッキから風景を見て
あの島は何島か地図でチェックし安心すると
購買でお菓子を買ってかじります。
睡眠不足なので彼女は寝ていました。
1時間半かかって福田につきました。
タンデムツーリングでフェリーというのは恥ずかしいものです。
港のバイク乗りたちに
「おっ、バイクおるやん」と指差されながら思われていたのは
「なんや女連れの軟派ライダーか」でしょう、きっと。

瀬戸内、この冬一番の冷え込みということで昼過ぎの気温1度。
温暖な瀬戸内海もこの日ばかりはちょっと寒い。
小豆島は香川県なので一応初香川でした。
瀬戸内海では淡路島に次ぐ2番目に大きい島なので結構走り甲斐があります。
田舎だけに運転がやさしいです。
40キロで走ることも80キロで走ることも自由自在です。
関西や西日本の都市部が荒々しいだけだという問題もありますが。
小豆島だけでなくフェリーから見た家島諸島もそうでしたが
岩がむき出しの荒々しい風景が多いんですよね。
秀吉の大阪城も徳川の大阪城もこれらの石が大量に切り出されたのを
知っていましたからちょっとだけ感慨がありました。

宿に荷物を置いてから温泉へ歩いていきました。
夜空にはきれいに見える星、海岸沿いの道路、風呂上りに歩く砂浜。
日常からちょっと離れただけで、視点がちょっとずれただけで
今日が変わる。
ちょっとはズレを楽しめる年になったのですね。
早起きして奈良へ行ってきました。
関西の各都市は近いので観光に便利です。

奈良市内を通過することは何回もあったけど
徒歩で歩き回るのはまだ2回目でした。
土地勘のない街を歩くのは実に楽しい。

春日大社志賀直哉旧居、興福寺を見物しました。
正倉院は土日が見学不可という納得いかない理由で入れませんでした。
残念です。
興福寺の仏頭は高校生の時から見たかったので満足しました。
それから僕の行く先には志賀直哉に関係するところが多い。
この奈良の旧居はかなりセンスの良い建築でしたので
僕もこんな家を所有したいという願望が出てきました。

彼女と一緒だったので昼食にうまい蕎麦を食べ
歩き回って休憩と雨宿りを兼ねてカフェに入りゆっくりと過ごしました。
カフェ「たかばたけ茶論」は志賀直哉たちの
「高畑サロン」にちなんだお店ですが庭園の雨降りに味がありました。

今回は電車でしたが次回はバイクで色々立ち寄りたいですね。
今日は天気がいいらしい、
という理由でツーリング行ってきました。
本当は南紀(和歌山南部)に
1泊ツーリングしたかったけれど
夜から明朝にかけて天気が崩れるらしいので、
それは嫌だな、と。
日帰りでお隣滋賀県のお目当て史蹟を観光することにしました。

今日も大原を抜けて途中(地名、京都と滋賀の境目のひとつ)越えです。
最高気温が15度を超える日でも大原は山間部。
マイナス1度でした。
路肩には雪が数十センチ。
そんなところをバイクで走るのはアホみたいです。

まずは安土町の観音正寺へ。
繖山という山の上にあるお寺です。
詳しい方は分かるかもしれませんね。
「安土」と「観音(正)寺」という地名で。
近江の六角氏が居城としていた観音寺城があったところです。
その城跡とお寺を観光したわけです。
ここはかなりオススメです。
(有料道で)山を登るだけでも景色が楽しめます。
滋賀県は米どころなので田んぼが広がっているのがきれいに見えます。
六角氏は戦国大名としては取るに足らないかもしれないけど
京に極めて近く生産性の高かった土地柄とそれを治めた六角氏は
どこにでもいるような田舎の豪族とは全く違うと思っています。
当時の社会システムを考える上では貴重なサンプルです。
実際山の中を歩いてみると
信長と戦わずして観音寺城を出たのが分かりました。
戦略的な城ではないのですね。

観光地にバイクで乗り付けるという行為は
日本ではあまり歓迎されない行為です。
迷惑そうな目で見るだけではなく立ち入り禁止のことさえあります。
観音正寺はライダーに優しいところでした。
基本的に田舎の土地でツーリングするライダーが多いところは
土地が余っているという事情を除いても歓迎してくれるケースが多いですね。
お寺の方に親切にしていただいたので機嫌を良くした僕は
迷っているおじいさんに親切にしました。

ちょっと北上して多賀大社
ここまで来ると滋賀県と岐阜県の境目もすぐです。
太閤橋(太鼓橋とかけている)というそり橋が子どもに大変な人気でした。
伊邪那岐大神と伊邪那美大神を祀っていました。
なんでも既に古事記に多賀という地名が載っているほどの
歴史があるみたいです。
古事記はまだ全部読んでいないから早く読まなくてはと思っています。

彦根に移動し、当然彦根城に行きました。
天下普請の城だけあって今でも立派に城下町ですね。
さすが井伊家。
徳川の世の防衛戦略上、重要な土地ということで
造りが凝っているし、丘陵を取り囲む石垣の規模は広いし、と
見どころ盛りだくさんでした。

時間の都合上長浜城はパスして、一気に北上し、小谷城跡へ。
浅井郡という地名が残っているようにここは浅井氏の土地でした。
小谷城って有名な人物関係のドラマが
色々展開していくものすごく重要なポイントですよね。
山城でしたから登るのもちょっと時間がかかりました。
浅井長政が落城寸前までこもっていた本丸にベンチがあり
大広間の方を見ながら滅び行く小谷城と浅井氏を想像しました。
やはり僕は男なのでお市の方の悲しみよりも浅井長政の方がしっくりきます。

琵琶湖の東岸や1号線、8号線を走って全工程250キロちょっと。
帰りは渋滞があり、遅くなりました。
山城が2つ、とりわけ重要な彦根城があったせいで
移動とあわせて11時間でした。

仕方がないといえば仕方がないけどやはりバイクはなめられます。
3度、急ブレーキをかけました。
僕はクルマに迷惑をかけない走行を心がけているのに…。
全部100パーセント四輪に責任がある飛び出しなんですけど。
最初なんて後輪滑らせながら停止しました。
それを譲ってくれたと勘違いして悠々と手を上げながら
道路を横断していったおじさんのおめでたさに脱力しました。

**********運転免許を持つ全ての人たちへ******

合流する際に相手にちょっとでもブレーキをかけさせてしまうのは
運転が下手な証拠です。
そして下手なことに無自覚な方が非常に多い。

僕がバイクで直線を走っているときに
信号がない地点で合流する四輪の半分くらいはブレーキをかけさせます。
エンジンブレーキを含めると7割くらいです。
世の人の多くは意外にバイクは速いということを知りませんね。
全て原付と一緒に考えています。

同じケースで四輪を運転するときは
2割くらいしかブレーキをかけなくて済みます。

バイクの時は道を譲ると「当然だ、ボケ」という態度で接してくるのに
四輪の時は「ありがとう」という親切な態度に変わるのも
世のドライバーの不思議さです。

あと四輪の時に割り込むと「あ、ごめんね」と申し訳ない態度なのに
バイクの時は「お前、邪魔、どけろ」とあからさまに
意地悪な態度を取ってくるのも腹が立ちますね。
生意気な兄ちゃん姉ちゃんが調子に乗ってわざと意地悪してくる場合
僕みたいな気の短いライダーは本気でケンカ売るので意地悪はやめてください。


ドライバーと一緒でライダーにもマナーの良い悪いがあって
悪い人間に意地悪するのは結構だと思いますが
マナーをきちんと守っているのに意地悪する方は本当にやめていただきたい。
事故で責任取れるのはお金だけです。

まだまだ暴走族やマナーの悪いガキの乗り物のイメージが強いということです。
特にヨーロッパでは立派な旅の乗り物だというのに。
大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみもみず 天橋立


この歌、好きなんですよ。
百人一首に入っているんです。
僕は百人一首得意じゃない、というよりちょっと嫌いなんですけど。
作者は和泉式部の娘なんですよね。
美しい歌だと思いません?

そんなわけで彼女の言う
「生野(現・福知山市内)って遠いわ、
いわんやまだ行ったこともない(手紙も読んでいない)天橋立はもっと遠いわ」
(適当なヨリミチ訳)
っていう気持ちを味わいに大江山へ登ろうと決心したのです。

いきなり後日譚ですけど京(京都)から見て小式部内侍の歌を考えると
「生野が福知山の地名なら大江山がなんで福知山より北にあるんだ?」
と思ったんです。
京都府の土地勘に敏感な者なら当然の疑問です。
答えは鬼退治で有名な大江山(大江町)ではなく
「丹波・山城両国の境にある大江山」だそうです。
やっと納得。
だから大江町の大江山に登って小式部内侍の歌を引っ張り出すのは
間違いになるようですね。
でもネットで検索してみるとわんさかといるわ、いるわ、勘違いしている人。
僕も勘違いした一人だけどノーヒントで1日後に気付いたから良しとしよう。
間違いに気付くの早くて偉いぞ、自分。

今回のことで気付きましたがネット上の日記で旅行話を書く人って
ウェブで自己肯定装置を作っているんですね。
「わたしってこんなに素敵なところに行ったんですよ」って。
(暗に他人に対して素敵なところへ行った「わたし」を認めて欲しがっている)
だから大江山に登ると小式部内侍の歌を引っ張り出さずにはいられないわけで。
僕もその一人ですね、おそらく(笑)
しかしながら僕は旅行は趣味でもなければ好きでもないですから。
重要視していませんし全く自慢に思ったこともないですし。

冬の大江山は雲海が見えるんです。
これを味わいに午前8時前大江山中腹へクルマを走らせました。
ところが今年の台風でアクセス道路がひどいことになっていました。
それを苦労して抜けたというのに登山道が通行止め。
勿論台風のせいです。

これも後日譚ですが通行止めなのは翌日の新聞に載っていました。
遅い!

ヤケクソになった僕は京都府を脱出するだけでなく
隣県の福井県や兵庫県でもなく(両方ともそこそこ行っているので)
一気に鳥取県へ行くことに決めました。
しかも夜ごはんは舞鶴市(京都府北部)で食べる、と。
大江山に備えた小汚い防寒着は他の目的には似つかわしくないですが。

色々寄り道しながら行きましたよ、鳥取砂丘
しょぼい観光地を想像していただけにびっくりしました。
中国地方出身だけに新聞記事や写真、
鳥取大学を代表とする研究機関の学術的価値を知っていましたが
目の当たりにすると意外と立派で感心してしまいました。
関西文化を脱していたので中国地方訛りがうれしくもありました。
将来自分に子どもがいたら連れて行きたいところの一つになりました。

数時間かけて(ライダーの運転する四輪は速い)京都府に戻ると
舞鶴で海鮮丼を食べて、日が暮れると五老岳へクルマで登り
今夜は漁師街の夜景を見たのです。
ぽつぽつと降り始めた雨も四輪ではなんのその
そのまま温泉へと走りました。
帰りの30キロくらいだけ彼女の練習で運転代わりました。
後続車が迫るとブレーキ、アクセルのペダルは指導して踏ませ
ウインカー・ハザードスイッチやハンドル操作も助手席の僕がしました。
「うわ〜、かっこいい(ウソっぽく)、教習所の教官みたいやー」
「いや、ぶつけられたら困るし」
運転操作に慣れていない人の運転は背中と掌に嫌な汗が出ます。

この日も車内泊でした。
なんとなーく
福知山城に登ってみたいな
って思った。

いつの間にかバイク用ジャケット着込んで
後部座席に荷物乗っけて跨ってて。

道路情報だけは詳しい。
京都周辺の道は地図を見なくても分かる。
福知山に行くなら…と
色々周辺スポットを考えた。

京都市から北へ行くと山が赤かった。
赤と言っても様々な色があるもんだ。
2時間走り続けて綾部市。
安国寺は紅いモミジに囲まれていた。
みんな写真好きだね。
モミジをバチバチ撮影して。
ここは足利尊氏生誕地だけど、みんな歴史には全く興味がないようだった。

西へ走って福知山市。
目当てのラーメン屋を探すのに手間取った。

食事に満足すると福知山城へ登ってみた。

明智光秀が築城したこと。
朽木氏が廃藩置県まで治めたこと。

以上の2点だけは知っていた。

天守閣は建て直した際ちっちゃくなっているし
展示に貴重なものが少ないし派手さは全くなかった。

ただ「豊磐の井」と石垣は見応えがあった。
豊磐の井は深さ50メートルの井戸だ。
石垣は光秀の支配者としての英知を見た。
反抗的な寺社の五輪塔などを容赦なく接収し石垣にしたというのだ。
これほどの数は珍しいらしい。
意外に楽しかったのが由良川の治水の歴史。
もっと灌漑(水利史)や城郭(歴史地理学)の勉強をしとけば良かった。

※正確にいうと光秀の居城は坂本城(現・大津)で明智秀満が福知山を治めた。

福知山を出ると、兵庫県や大阪府を通りながら京都府へ帰った。
ちょうど丹波国をぐるりとまわったかたちだった。
日が落ちてからのるり渓(奇岩・紅葉の名所)は紅葉を楽しめなかった。

本日の走行距離240キロ。
ぷちツーリングってところか。

ところで福知山城も日本百名城のひとつなのだが
俺はまだ20城も回ってやしない。
本日は早起き。

俺、
一通り関西の有名どころをまわっておこう
というミーハー根性。
同じ気持ちの友を誘う。

かの有名な石清水八幡宮と木津川流れ橋に行ってきた。
これらは京都府八幡市(大阪府枚方市の隣)にある。
土日祝日の京都市内は観光客で騒々しいことこの上ないから
京都市から離れた八幡市へ脱出したというわけである。

石清水八幡宮は、予想通り、人出は多くなくて付近の住民にまぎれて
チャリダーくらいしか旅人はいなかった。
意外なのはエジソンの記念碑があったこと。
彼のフィラメントは八幡の竹でできたものだったらしい。
初耳だった。
他人様の絵馬の願い事を読むのは無礼だろうか。
俺は下品にも大好きだ。

木津川流れ橋は無残、今年の台風の被害でぼろぼろだった。
一応立ち入り禁止になってはいた。
(省略)
子どもが「今にも壊れそうやー!」とはしゃいで橋を揺らしていた。
本当に壊れそうだった。
大人になると無茶はできないもんだ。
そのように友と話し合った。
我々ががきんちょならばきっと一緒に橋を壊しにかかっていただろう。

ちなみに流れ橋、時代劇ロケの定番である。
暴れん坊将軍も走った。
今回は「ちょんまげ天国」という画像を使ってみた。
←平等院鳳凰堂

遠路遥々友人が泊まりに来ているというのに
思いっきり寝坊していた。
失礼極まりない。

本日は彼のリクエストに応えて宇治観光を。
おけいはん(京阪電車)に揺られて宇治到着。

放生院(橋寺)

末多武利神社

宇治神社

宇治上神社

源氏物語ミュージアム

こんなかんじだった。
宇治神社へ詣でる前に「アジアお茶まつり」なるものに参加したっけ。
NGO団体が活動資金を募るための祭りをしていたのだ。
友人はお金を出していたが、働いていない自分は出さなかった。
所詮「学生さん」でしかない自分の金は自分の使える金でありながらも
100パーセント自分のものだとは言えないから払いたくなかった。

スリランカ、モンゴル、インドネシア、新疆ウイグル自治区の人々がいたが
何を話しているのかほとんど分からなかった。

源氏物語ミュージアムは思いのほかよく理解できて満足した。
ミュージアムで映画を観ているとき隣のおじさんが眠ってしまい
もたれかかってきたのはちと気持ち悪かった。

先を急ぐ自分は平等院鳳凰堂で友人と別れて京阪電車に飛び乗った。
一度帰宅し、学園祭の手伝いに行こうとしたが
バイクの調子が悪いので、我慢しきれずバイク屋へ行った。

前回の修理箇所が手抜きだったことが分かり文句を付けにいったのだった。
担当者を呼び出すが、彼は店にいなかったので工場長にみてもらった。
彼は5年間、俺のマシンをみている。
4時間近くかかって修理完了した。
3度もセッティングし直したからだ。
工場長は仕事が丁寧で、客の扱いにも慣れているから好きだ。
それに比べて前回修理を頼んだ新人君は客に対する愛想もないし誠意もない。
説明を求めても「こういうことになってるんです」と
マニュアル通りの受け答えばっかりで、余計に腹が立った。
文句を言いたいんじゃなくて、明らかなミスを認めて欲しいだけなのに。

同じミスをしたって謝り方ひとつで許せるものと許せないものがある。
もし自分もミスをしたらそれを潔く認めなければならないと肝に銘じた。
俺って自分をいじめるのが好きなんだよね。
しかもチャレンジャー。
ペーパードライバーと言われても
仕方ないくらいクルマに触らないのに
1台がやっと通れるすれ違い困難な道を数十キロ走ったり
勾配が10度近い狭路の林道を走ったり
峠道を100キロで下ったり
急カーブをノーブレーキで曲がったり。

もちろん無事故で帰ってきた。
危ない!って場面も全くなかった。
ずいぶんゆっくりとした2日間の旅行だったけど700キロくらい走ってた。
ガードレールのない狭い峠道でトラックとすれ違い、
急いで下りのカーブを左後方へバックし崖まで10センチ程度まで
車体を寄せ道を譲ったのなんて自分でテクニックに酔いそうになった。

特にワインディングに関して思うんだけど
四輪はブレーキングが甘くて下手でも運転ができるから
二輪(スクーターはダメ)に乗って技術を磨くのもひとつの手かと。
車幅感覚と駐車、バックだけは四輪オリジナルのテクニックだけど。

高級旅館の…

2004年11月16日 観光や旅
貸切露天風呂って何かエロいよね。

それはさておき
貧乏人だから色々赤っ恥かいたり。
あんまり慣れないことはするもんじゃないね。

都市の空気はまずい、自然の空気はうまい。
それさえ忘れるくらいまずい空気を吸ってまずい水を飲んでいる。
赤目四十八滝を歩いて気付いた。
画像は京焼きの香合

やっとこさ尾道を出るとR2をどんどん西進した。
渋滞してるところは迷惑だけどすり抜けさせてもらった。
三原市からR185(海岸線)を走った。
原付でゆっくり暖かい日差しの中を走った。
いい気分だった。

竹原市に着くと路駐。
「二輪は除く」と書いてあったので違反ではない。
竹原は江戸時代の街並みが保存されている。
時間の都合上、西方寺普明閣だけを見学した。

竹原を出発すると嫌というほど海を見ながら走った。
原付の遅さにイラつくことはなかったけどもうちょっとスピードが欲しかった。
大量にある海のカキ・イカダを見るとやっぱり広島のもんだよなって思った。

ひたすら走って呉市。
アレイからすこじまで海上自衛隊の潜水艦が並んでいるのを見学。
その後行った歴史の見える丘は特に感想なし。
石川啄木の詩碑は釧路に続いて2ヶ所目だった。

入船山記念館は旧海軍の展示が多いわけだが、
観光ボランティアの人を好きになれなかった。
戦争を経験したおじいさんたちなんだろうけど
大した根拠もなく心の底から海軍善玉論を信じていて、
日本がアメリカに負けて民主化されたのを
喜ぶ左翼の大前提を信じているんだもの。

頭が古い。
山本五十六や弩級戦艦大和について語るのはいいけどなんだよ、あの説明。
山本五十六さえ生きていれば、とか。
山本五十六は確かに軍人として先見の明があっただろうが、
陸スケ(旧陸軍)がバカだから負けた、という意見を言う奴はバカだろう。
それを聞いたおばちゃんたちの集団も
日本は負けてよかった、よかったと得心していた。

俺は自虐史観が嫌いだ。
反省はしなくてはいけないだろうが誇りを失うのはダメだ。
日本だけが悪かったわけじゃない。

ところで昔軍艦好きだった俺は戦艦陸奥のプロペラの大きさに喜んだ。
太平洋戦争は戦艦対決じゃなくて航空機による爆撃と魚雷が重要になったわけで
瀬戸内海にただの砲台と成り果てて轟沈していった戦艦を思うと哀しくなった。
戦艦の死に方じゃないから。
ビキニ水爆実験の標的とされた戦艦長門もかわいそうだ。

呉市立美術館はクレマンソー(フランスの政治家)
の香合コレクションを展示していた。
これは良かった。
茶器に詳しくない俺のような素人でも美に魅了された。
600点という量もすごかった。

呉市から北上し2号線へ合流すると一気に交通量が増えた。
西進して広島市に入ると都会に思えた。
原付で走るには厳しいほどのスピードと交通量。
2段階右折を多用。

俺は広島が嫌いだとずっと思ってきた。
でもこんな風に日本各地を巡っていると
広島という都市が許せるような気がしてきた。
原付でもスピードを出せば
広島中心部から40分くらいで実家に着くのは意外だった。
アストラ○ラインいらないじゃん。

総括。
やる気があれば大体のことはできる。
オートバイじゃなくて原付しかないから旅できないと言う友人が多いがどうだ?
「お前は原付じゃないから分からないんだ」なんてもう言わせないぞ。
俺は簡単にやってのけたぞ。
大体原付なんてチャリに比べても無茶苦茶楽なんだしな。
やっぱり究極は徒歩旅だろう。
それ以外は基本的に大したことはない。
原付はめちゃくちゃ経済的な旅の手段。
どうしてみんな使わないんだ?
それだけの気合いがないだけじゃろが?
それじゃあ羨ましがるなや!


全工程732キロ。
ガソリン代約1500円。
尾道の中学校に転校してきた一美(小林聡美)は、幼なじみの一夫(尾美としのり)と再会。しかしその直後、ふたりは神社の階段から転げ落ち、そのはずみで心と身体が入れ替わってしまう…。 山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』を原作に「映像の魔術師」大林宣彦監督が故郷・尾道でオールロケを敢行して完成させたジュヴナイル…

8時に生口島を脱出。
因島に渡った。
小高いところにある水軍城の石段を上った。
島々を巡ると制海権って重要だったことを実感させる。
それにしてもいつから
「因島=ポルノグラフィティの島」ってことにされたんだろう。

バカバカしい。
ちなみに現在は知らないが
因島市は日本で唯一の一島(プラスα)を中心とした市である。

因島大橋を渡って向島へ渡る。
大林監督の「転校生」が好きだった俺はロケ地のひとつ立花海水浴場へ。
そこからは村上水軍拠点の余崎城跡が見えた。
そこから一転上り坂を行くと高見山の入り口。
高見山頂上はおそらく稼働していないだろうリフトがあって哀しかった。
尾道水道が見えた。
そこにはしまなみ海道と尾道大橋。
人工的なものの移り変わり。

尾道駅近くに原付を置いて尾道探索を開始した。
知己が住んでいる街だが連絡すると引き止められるので秘密にして歩き回った。
これはおとといの福山も同様だった。

御袖天満宮。
天満宮のネーミングから菅原道真に由来することが分かる。
ここも「転校生」のロケ地。
少年少女が長い石段から絡み合って落下する場面の。
上りきると息が切れた。
写真だけとって去るのはバカのやることなので参拝をした。
石段を振り返るとお誂えの状況が発生。
お姉さんが石段の上で休んでいるではないか。
このお姉さんを後ろから押して
一緒に落ちたら女になれるかもしれない…、なーんてね。
その前に傷害罪で捕まるのがオチ。

猫の細道とか恋人のなんとかやら色々な路地を通って
千光寺への道を上っていった。
坂の町といえば長崎とかも行ったが尾道も相当にきつかった。
息が切れそうになりながら見つけた
中村憲吉旧居はひっそりしていて気に入った。
そこから少し上ると千光寺だった。
かつて広島のお化け番組(驚異的な視聴率なこと)
ここからの夜景を毎晩映してたな。
司会者が代わってからさっぱりらしいが。
千光寺は完全に観光地化されててあんまり好きになれなかった。

尾道文学記念堂。
ここの展示は嫌いじゃなかった。
林芙美子のものは特に良かったし。
でも俺はここが嫌い。
というのもここの施設で働いている人間が
若者をバカにしてるのに加えて文学観が狭い旧弊の存在だから。
俺をどんな奴かも知らずに最近の若者は本を読まなくてバカだ
みたいなことを遠まわしに言いながら
(知らないなりに)せめてこれだけでも覚えて帰ってね」
と一言で終わるありがた迷惑なバカにした説明をしたり。
大体、大衆小説を読むタイプじゃないんだ俺は。
大衆小説家を知らなかったくらいでバカモノの仲間に入れるなっちゅーの。
じゃあ、お前は文学を何だと思っているんだ。
俺は文学観の狭い人間は大嫌い。
こういう施設の従業員は特に嫌い。
例えば林芙美子に詳しかろうと
それは丸暗記の観光ガイドさんと一緒で文学観は薄っぺらい。
本当に頭の良い人と偏差値優等生の違いみたいなもんだ。
じゃあおばさん村上春樹や村上龍や山田詠美や江國香織について話せるか?
話せないだろうどうせ。
上記だって俺の押し付けだからな。
せいぜい話せても尾道に縁のある林芙美子や志賀直哉文学程度だろう。
文学を語るなら「文学」って領域に意識的でないといけない。
自分の信じている狭い「文学」を他人に押し付けて
他人を図るなんてバカのやることだ。

それとまた「最近の若者は」ネタを続ける。
「最近の若者は歴史に興味がないでしょ?」
要するにバカにしてるわけだ。
俺が史学やっているのも知らないくせに。

ババア「これは新撰組に由来してて(云々…省略)」
俺「あのー、京都から来てるんですけど。しかも広島出身だし」

ついでに歴史小説と史学を混同しているバカさ加減も
指摘してやろうかと思ったけど、
おばちゃんに恥じかかせても得にはならないし俺も品が悪くなるのでやめた。
とにかく繰り返す。
俺はバカが嫌いだ。
以下は真のバカだ。

知的ぶっているのに知的怠惰がある者。
2流3流なのにそれを自覚できていない者。

知的バカという存在ほど迷惑な存在はない。
下記のような兄ちゃんは俺の領域ではバカではない。
愛すべきただの小市民だ。

高卒で就職、一生懸命工場で働いて、
でもパチンコでお金を擦ってすってんてん、深夜はエロ本を読む

志賀直哉旧居。
ここのおじさんは親切で他人を色眼鏡で見ないので良かった。
当然のことだけどこういう当然なことをできる人は多くない。
俺の好きな短編「清兵衛と瓢箪」が
見事な瓢箪に記述されていたのは面白かった。
簡素で、でも色々揃って不自由しなくて。
尾道水道を見下ろした部屋がうらやましかった。

お昼は尾道グルメ。
行列のできるラーメン屋は大したことなかった上に
人擦れしたおばさんでいい気分がしなくて…。
カフェで口直しと気分転換。
俺は決してかわいくないけど何か惹きつける店員さんのいる店が好き。
尾道ギャルが外車の話ばかりをして自慢げなのがちょっと嫌だったけれど。
どうして日本人は何もかもブランド化するのが好きなんだろう。
自分がそれにふさわしいかどうかも考えずに。

(その2に続く)

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