経験していない「あの日」について
2005年1月17日 日記・雑記
<秘密メモ>みづきさん
あの日から10年という言葉を矢鱈と見聞きします。
人間は生きていく上で自己の存在に関わるようなことしか
本当のところ必要としないし、憶えていられないのだと思います。
それは日常の些細なことでもあるでしょうし
生死に関わるような緊迫した過去でもあるでしょう。
村上春樹の新聞への寄稿を引用すると
「自分の源のようなものが揺さぶられて崩れ」る感覚があったらしい。
関西で育った彼だが、彼はあの日マサチューセッツにいた。
しかし上記の感覚を抱いたようです。
(もちろん現実には傍観者でしかいなかったという認識はあったようです)
実際に震災にもあっていない、何にも知らない人間が
大仰に悲しいふりをして神戸に「ご冥福をお祈りいたします」と
メッセージを送る。
そのことを偽善者の振る舞いに感じる方もいらっしゃるでしょう。
けれど人間結局は他人の苦しみなど分からないんだと思います。
仕方ないのだと思います。
神戸のような都市部は嫌でも目立つからマスコミも人々の関心も引きます。
例えば同じ震災でも人々は淡路島ではなく神戸ばかり頭に思い浮かべます。
例えば奥尻島や雲仙普賢岳も、被害が小さかったわけではないのに
知識としてではなく悲しい感情が沸き起こる記憶として
憶えている方は多くはないでしょう。
例えば(私的なことを言わせていただければ)
広島・長崎以外の地で原爆に関する
注目度・関心の低さはびっくりするほどです。
しかし悲観するべきではないと思います。
確かに今から第三者が同じ経験をするのは難しいですが
思いというものは同質のものでなくとも伝えることができます。
だから「お前は経験もしてないくせに」と心を閉ざさず
「偽善者」を許してあげてください。
意識は持ち様です。
「どうせ俺はおめーらのことなんて分かんねぇよ」と
関心を示さずに神戸の街を歩くタイプの人間は
他人の範囲に対して物分りはいいですが
あまり友人にはなりたくない、そう思いませんか。
分からないなりに分かろうとする、その試みが大事でしょう。
また傍観者「偽善者」も敢えて分かったふりをしなくていいと思います。
分かったふりというと聞こえは悪いですが
事実、悲惨さを知らないのですから、
分かる分かる、と被災者に擦り寄るのは逆効果ではないでしょうか。
一般的に他者理解は難しいものですが
間接的に文化を介して交流を深める成功例が多いかと思います。
文化をビークルとして2者の間を往還すれば
徐々に意識の持ちようが変わっていくかもしれません。
例えば村上春樹も有効だと思います。
「あの暴力的な揺さぶりを、僕はどこかで神戸という街のために感じなくてはならないんじゃないか。どこかで僕は傍観者である立場を脱し、もう一度その街と切実に向き合わなくてはならないんじゃないか。テレビ画面の前に立ちすくみながらそう思った」
あの日から10年という言葉を矢鱈と見聞きします。
人間は生きていく上で自己の存在に関わるようなことしか
本当のところ必要としないし、憶えていられないのだと思います。
それは日常の些細なことでもあるでしょうし
生死に関わるような緊迫した過去でもあるでしょう。
村上春樹の新聞への寄稿を引用すると
「自分の源のようなものが揺さぶられて崩れ」る感覚があったらしい。
関西で育った彼だが、彼はあの日マサチューセッツにいた。
しかし上記の感覚を抱いたようです。
(もちろん現実には傍観者でしかいなかったという認識はあったようです)
実際に震災にもあっていない、何にも知らない人間が
大仰に悲しいふりをして神戸に「ご冥福をお祈りいたします」と
メッセージを送る。
そのことを偽善者の振る舞いに感じる方もいらっしゃるでしょう。
けれど人間結局は他人の苦しみなど分からないんだと思います。
仕方ないのだと思います。
神戸のような都市部は嫌でも目立つからマスコミも人々の関心も引きます。
例えば同じ震災でも人々は淡路島ではなく神戸ばかり頭に思い浮かべます。
例えば奥尻島や雲仙普賢岳も、被害が小さかったわけではないのに
知識としてではなく悲しい感情が沸き起こる記憶として
憶えている方は多くはないでしょう。
例えば(私的なことを言わせていただければ)
広島・長崎以外の地で原爆に関する
注目度・関心の低さはびっくりするほどです。
しかし悲観するべきではないと思います。
確かに今から第三者が同じ経験をするのは難しいですが
思いというものは同質のものでなくとも伝えることができます。
だから「お前は経験もしてないくせに」と心を閉ざさず
「偽善者」を許してあげてください。
意識は持ち様です。
「どうせ俺はおめーらのことなんて分かんねぇよ」と
関心を示さずに神戸の街を歩くタイプの人間は
他人の範囲に対して物分りはいいですが
あまり友人にはなりたくない、そう思いませんか。
分からないなりに分かろうとする、その試みが大事でしょう。
また傍観者「偽善者」も敢えて分かったふりをしなくていいと思います。
分かったふりというと聞こえは悪いですが
事実、悲惨さを知らないのですから、
分かる分かる、と被災者に擦り寄るのは逆効果ではないでしょうか。
一般的に他者理解は難しいものですが
間接的に文化を介して交流を深める成功例が多いかと思います。
文化をビークルとして2者の間を往還すれば
徐々に意識の持ちようが変わっていくかもしれません。
例えば村上春樹も有効だと思います。
「あの暴力的な揺さぶりを、僕はどこかで神戸という街のために感じなくてはならないんじゃないか。どこかで僕は傍観者である立場を脱し、もう一度その街と切実に向き合わなくてはならないんじゃないか。テレビ画面の前に立ちすくみながらそう思った」
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