コタツに入ってちゃんちゃんこ着て試験勉強。
ちょっとした憧れでした。
エアコンつけて椅子に坐って机に向かって勉強。
このスタイルの方がきっと効率がいいでしょうね。
長い大学生活最後の試験を受けてきました。
基本的に試験なんて嫌いなんですけど、
最後ということで1日15時間くらい勉強してみました。
僕は高校卒業して1年浪人して大学に入りました。
現役合格した学生は浪人した人たちを無駄な年月を過ごしたダメな人たちと思い
浪人経験した学生はバカだったから浪人したと思うのではなく、
自分に課せられた特別な試練・修行期間のように感じ取り、
決して無駄ではない気合いと努力の年月だと見なしがちです。
この数年で大学は変わってきています。
圧倒的に浪人生が減ったこと、
(学力的に)大学へ入りやすくなったことは
まず挙げねばならないと思っています。
だから両者の意識の乖離はますます広がっている
と言って差し障りないでしょう。
今の大学生や受験生には信じられないかもしれないですが、
所謂難関大学の浪人経験率は近年まで長らく50パーセント以上でした。
2人に1人以上が浪人経験だったのです。
が、2000年、2001年は特別です。
一気に大学に入りやすくなりましたから。
勿論それまでも少しずつ大学は入りやすい身近な存在になりつつはありました。
しかし受験人口の減少とユニークな入試の開始、推薦入試の多様化、
センター試験入試で入れる私大の激増などが
劇的に環境を変えたと言えるでしょう。
受験生にはどんどん有利になっています。
旧帝国大学はまだ優等生が集まる傾向にありますが、私大はひどい。
定員割れはまだマシで、儲からないところは大学が破綻したり、
儲かるところは商業主義に走ったり、質の悪い学生を生み出したりです。
これから私大の中ではもっともっと二極化が顕著になるでしょう。
卒業を控えると例えば就職活動なんてものがありますが、
大学名やそのブランドで学歴問題なんてものが熱く語られます。
大学名で学生の質を計るのはナンセンスだという実力主義の要請もありつつ、
一部の学生の個性化、私大の堕落による事情(バカでも名門私大に入れるの意)
多様化もあって本当に大学名で判断できなくなった
という事実もあると思うのです。
「○○大学の学生は△△だ」
という大学名でのイメージがくだらないのは言を俟ちません。
しかし便利な制度を利用し、たくさん併願して、
それほどの苦労もせずに入れたからこそ学歴問題がナンセンスだと言える、
この頃の大学生の事情もあると思います。
だからそれほど大学の「頭の良さ」には執着がありません。
個人は個人、大学によって判断するもんじゃない、と。
その化けの皮が剥がれるのがやはり就職活動でしょう。
大抵の人は学歴について言及します。
「頭が良い」大学なら敬遠されたと言い、
「頭の悪い」大学なら学歴差別されたと言います。
一方で確かに昔に比べればユニークな制度で育ってきた学生に
実際ユニークなタイプがいるのも事実です。
だから入学が容易になっても
学生がバカになったかどうかはっきり分からないが、
全体的には徐々にバカになってきていて、
それでもユニークとバカは紙一重で、
旧帝大と私大で二極化しているというのが本音だと思います。
国立大学、特に旧帝大は劇的な変化がありませんが、
僕が受験した99年からたった6年でこれだけ事情が違います。
どの旧帝大も難関私大も浪人率が50パーセント以上でした。
東京の私大でセンター入試していたところはすごく少なかった、
特に名門に限るとMARCHはほぼ全滅で早稲田が開始したものの、
旧帝大に余裕で合格できるほどの学生にしか門戸はなかった。
東京以外の私大はセンター入試を導入しつつあったが、
例えば九州の名門私大福岡大学や西南学院大学も取り入れてなかったと思うし
関西の関関同立も一部大学や学部で採用していただけで、
しかも当時は三教科を80パーセントとか取ればいいような
簡単なものじゃなくて五教科を80パーセント台中盤から後半必要だった
と記憶しています。
センター入試での滑り止め私大受験は、
どちらかというと旧帝大合格濃厚受験生の特権でしたね、当時。
中国文学や東洋史をやるのに漢文が必要でなかったり、
英文学や西洋史をやるのに英語が必要でなかったり、
一般的に考えるとひどいことが進行中だとは思いますが、
受験に必要としなくても本当にやる気がある者は術を磨きますし、
効率の良い社会を作ることに貢献してはいると思います。
手練手管、小手先の技術を磨くことに寄与していなければ良いのですが。
しかしやっぱりよく分からないのが本音です。
ちょっとした憧れでした。
エアコンつけて椅子に坐って机に向かって勉強。
このスタイルの方がきっと効率がいいでしょうね。
長い大学生活最後の試験を受けてきました。
基本的に試験なんて嫌いなんですけど、
最後ということで1日15時間くらい勉強してみました。
僕は高校卒業して1年浪人して大学に入りました。
現役合格した学生は浪人した人たちを無駄な年月を過ごしたダメな人たちと思い
浪人経験した学生はバカだったから浪人したと思うのではなく、
自分に課せられた特別な試練・修行期間のように感じ取り、
決して無駄ではない気合いと努力の年月だと見なしがちです。
この数年で大学は変わってきています。
圧倒的に浪人生が減ったこと、
(学力的に)大学へ入りやすくなったことは
まず挙げねばならないと思っています。
だから両者の意識の乖離はますます広がっている
と言って差し障りないでしょう。
今の大学生や受験生には信じられないかもしれないですが、
所謂難関大学の浪人経験率は近年まで長らく50パーセント以上でした。
2人に1人以上が浪人経験だったのです。
が、2000年、2001年は特別です。
一気に大学に入りやすくなりましたから。
勿論それまでも少しずつ大学は入りやすい身近な存在になりつつはありました。
しかし受験人口の減少とユニークな入試の開始、推薦入試の多様化、
センター試験入試で入れる私大の激増などが
劇的に環境を変えたと言えるでしょう。
受験生にはどんどん有利になっています。
旧帝国大学はまだ優等生が集まる傾向にありますが、私大はひどい。
定員割れはまだマシで、儲からないところは大学が破綻したり、
儲かるところは商業主義に走ったり、質の悪い学生を生み出したりです。
これから私大の中ではもっともっと二極化が顕著になるでしょう。
卒業を控えると例えば就職活動なんてものがありますが、
大学名やそのブランドで学歴問題なんてものが熱く語られます。
大学名で学生の質を計るのはナンセンスだという実力主義の要請もありつつ、
一部の学生の個性化、私大の堕落による事情(バカでも名門私大に入れるの意)
多様化もあって本当に大学名で判断できなくなった
という事実もあると思うのです。
「○○大学の学生は△△だ」
という大学名でのイメージがくだらないのは言を俟ちません。
しかし便利な制度を利用し、たくさん併願して、
それほどの苦労もせずに入れたからこそ学歴問題がナンセンスだと言える、
この頃の大学生の事情もあると思います。
だからそれほど大学の「頭の良さ」には執着がありません。
個人は個人、大学によって判断するもんじゃない、と。
その化けの皮が剥がれるのがやはり就職活動でしょう。
大抵の人は学歴について言及します。
「頭が良い」大学なら敬遠されたと言い、
「頭の悪い」大学なら学歴差別されたと言います。
一方で確かに昔に比べればユニークな制度で育ってきた学生に
実際ユニークなタイプがいるのも事実です。
だから入学が容易になっても
学生がバカになったかどうかはっきり分からないが、
全体的には徐々にバカになってきていて、
それでもユニークとバカは紙一重で、
旧帝大と私大で二極化しているというのが本音だと思います。
国立大学、特に旧帝大は劇的な変化がありませんが、
僕が受験した99年からたった6年でこれだけ事情が違います。
どの旧帝大も難関私大も浪人率が50パーセント以上でした。
東京の私大でセンター入試していたところはすごく少なかった、
特に名門に限るとMARCHはほぼ全滅で早稲田が開始したものの、
旧帝大に余裕で合格できるほどの学生にしか門戸はなかった。
東京以外の私大はセンター入試を導入しつつあったが、
例えば九州の名門私大福岡大学や西南学院大学も取り入れてなかったと思うし
関西の関関同立も一部大学や学部で採用していただけで、
しかも当時は三教科を80パーセントとか取ればいいような
簡単なものじゃなくて五教科を80パーセント台中盤から後半必要だった
と記憶しています。
センター入試での滑り止め私大受験は、
どちらかというと旧帝大合格濃厚受験生の特権でしたね、当時。
中国文学や東洋史をやるのに漢文が必要でなかったり、
英文学や西洋史をやるのに英語が必要でなかったり、
一般的に考えるとひどいことが進行中だとは思いますが、
受験に必要としなくても本当にやる気がある者は術を磨きますし、
効率の良い社会を作ることに貢献してはいると思います。
手練手管、小手先の技術を磨くことに寄与していなければ良いのですが。
しかしやっぱりよく分からないのが本音です。
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